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藪寿司

藪寿司

その12 : 金秋男ーミナト組

 金秋男との出会い


1968年3月20日、レイは医師国家試験阻止闘争でデモの指揮者を務めて逮捕された。彼は4日間拘留されて完全黙秘を通した。彼が放り込まれた留置所の6号房には先客が2人いた。傷害被疑者の若いチンピラ堀田某と、やはり傷害被疑者の小太りの中年男金田秋男である。「よろしくお願いします」とレイは2人に頭を下げた。「挨拶はそれだけか、全学連。てめえ名前はねえのか?」とチンピラはからんで来た。「黙秘していますから名前は名乗れません」。看守が檻の外から「堀田やめろ。こいつはマエ(前科)が5回の強者だ。堀田、手出しはするんじゃないぞ。絶対に手出しはするなよ」と声をかけた。

「やめろ」というのは「やっても良い」、「手出しをするな」とは「手出しをしても構わない」という了解を与えたことであった。当時暴力団は警察が介入しにくいように右翼政治団体に組織替えをして、左翼の全学連を目の敵にしていた。警察や公安は、左翼には厳しかったが、右翼には甘い時代だった。留置所内で全学連の闘志達は暴力団員達にかなりひどい目に合わされていた。警察は完全黙秘の闘士を暴力団員と同じ房に放り込んでさんざん痛めつけさせて、房内の取り調べ官に自白させて、「同房者からの証言」として調書に仕立て上げることはしばしば行われていた。

「マエが5回ということはお前が牢名主というわけか。それじゃ国試阻止様、上座に来ていただきましょうか」。「レイの戦闘服であるジャンパーの背中には型紙を使ってスプレーで「国試阻止」とプリントされていた。不意に堀田はコブシを振り上げて襲いかかって来た。しかし1秒後にはレイの得意のワンツーパンチで床に転がっていた。看守が駆け付けて、レイは皮手錠をはめられて懲戒房と呼ばれる狭い独房に翌朝まで放り込まれた。

翌日再びレイは6号房に戻された。彼は堀田をにらみつけながら無言で上座に座った。堀田の後頭部には大きなコブが腫れ上がっていた。無言のにらみ合いが30分程続いた頃、3つの朝食がオリの隅の狭い出し入れ口から押し込まれた。「ムショメシ」と呼ばれる弁当は、外米入りの主食と、一口大の焼き魚と、タクアン2切れと、白湯1杯がすべてだった。房内で最下位の金田秋男は、最初に弁当と白湯のひと組をレイの前に運び、次にふた組の弁当と白湯を堀田の前に並べた。「金田さん、あなたは食べないの?」「私は腹一杯です」そう答える金田の目は飢え切っていた。「堀田さん、あなたの前のムショメシ2つは何の意味?」「こいつは中国人だ。日本人の税金で中国人にメシ食わすことはねえんだ」。堀田の声は弱々しかった。どうやら彼は昨日レイに撲れられた左胸が痛んで、大きな声が出せない様子だった。「また痛い目にあいたいの?」堀田は渋々弁当を1つ金田に渡した。

堀田は弁当を食べ終えると、竹バシを1本右手に握りしめて、自分の喉仏に突き立てる動作をしながらレイをにらみつけた。「てめえ、この房で夜眠る勇気はあるか」。彼は肩で大きく息をしていた。「堀田さん元気がないんだね。ボクも医者の卵だ。診察してあげよう」レイは立ち上がって堀田に近付くと、彼のセーターとシャツをめくり上げた。堀田は脅えた表情でされるままになっていた。レイは彼の左の肋骨を指先で1本ずつ押した。彼は何度か悲鳴を上げた。「肋骨が2本折れている。もしあんたが今夜ボクに仕返ししようと本気で考えているなら、今、あんたの顎を砕いてやってもいいんだよ。そうすりゃ、金田さんがあんたの弁当も食べてくれるし、ボクは独房でぐっすり眠れる。勿論、冗談だけどね。」「オレだって冗談だ」と堀田は竹バシを放り投げた。

6号房の3人は退屈な一日を尻取りをやったり、便紙(チリ紙)のコヨリでゲームをして過ごした。本名を明らかにしないレイを堀田は「国試阻止さん」と呼んだ。金田は彼を最初は「国士無双さん」と呼んでいたが、そのうち「国男さん」と呼ぶようになった。

堀田は新宿をシマとする暴力団のチンピラで、ミカジメ料の支払いに応じない寿司屋のオヤジを殴った罪で逮捕されていた。一方の金田秋男は本名が金秋男という広東出身の華僑で、新橋で金城飯店という中華料理店を経営していた。2年前に彼は日本人の前の経営者から3000万円でこの店を買ったのだが、彼は中国籍のため実印も印鑑証明書も持っていなかった。前の経営者は彼の義弟を金秋男に紹介し、彼の名義で売買に必要な書類を作成した。金秋男が店を引き継いで1年程経過した。金城飯店は軌道に乗り、繁盛していた。すると前経営者が義弟と一緒にやって来て、名義の貸料500万円を要求して来た。拒否すると新橋を根城にする美鳴門(ミナト)組が介入して来たので、仕方なく500万円を支払ったが、ミナト組は更に1000万円を要求してあらゆる形での営業妨害をしかけて来た。

店のトイレの鏡は叩き割られ、便器にタオルや犬の死体を投げ込まれたこともあった。ビニール袋入りの汚物を店内に投げ込まれて3日間臨時休業したこともあった。たまりかねた金秋男は警察に訴え出たが、日本国籍がないということでまともに相手にされなかった。「日本の警察は君達中国人の安全については関知しない。君が我が国での安全を保証して欲しいのなら、まず中国籍を捨てて日本国籍を取ることだね」。彼はその日の夜、店で狼藉の限りを尽くして入るミナト組のチンピラと大立回りを演じ、パトカーで駆け付けた警官に逮捕された。

3日後にレイは釈放された。いつものように兄が貰い受け、2人で巣鴨で飲んだ後、1人で金城飯店へ行った。店の前に2人の暴力団員がいて「今日は休業だよ。帰んな」と言った。レイが「国試阻止」のジャンバーを着用していたので「全学連のお兄ちゃん、今度来たら痛い目にあわせるぞ」とすごまれた。ミナト組事務所は金城飯店から300メートルほど離れた小路にあり、向いには古くて大きな旅館があった。







 反暴力団直接行動委員会


3日後、レイはしらかば派23人を動員してミナト組事務所を襲撃した。事務所には9人の組員がいた。ブラインドは降ろされていた。大きな応接セットがある広い部屋だった。23人の戦闘員は一斉に事務所に乱入し、全員無言のうちに鉄パイプが乱打され、9人の組員はたちまち気絶した。3分後9人は服を切り裂かれ素裸で床に横たわっていた。レイは皆が9人の組員を裸にしている間に奥の組長室に数人の仲間と乱入した。そこには組長と若い女1人がいた。2人は窓の方に逃れようとした。背中への一撃で女は気を失った。組長は鉄パイプの乱打にもかかわらず、気絶をしなかったが、服を切り裂かれる時に抵抗はしなかった。組事務所の撤底した破壊活動が行われた。室内のあらゆる形ある物は破壊された。机、テーブル、椅子、灰皿、冷蔵庫、湯沸かし器、電話、水道の蛇口、便器、そして壁も天井も床もはがされた。
組長室には床に固定された大きな耐火金庫があった。レイは素裸の組長を大金庫の前に引き摺り出して、「開けろ!」と命令した。組長はさからわなかった。金庫には800万円の現金が入っていた。鉄パイプの乱打で組長は気を失った。後日レイは500万円を金秋男に届けた。

ミナト組はこの襲撃に恐れをなして、事務所を引き揚げるのではないかと皆が考えた。しかし、2日後には事務所の改装工事が始まり、3日目からは、松葉杖をついたり、包帯姿の組員が事務所の工事現場に集まり始めた。

1回目の襲撃から8日が過ぎた。夕方6時に工事人達が引き揚げ、ミナト組事務所に3つの花輪が据えられた。組員が8人黒ずくめの衣裳で事務所前に整列した。6時45分から7時の間に5台の黒塗りの車が事務所前に停まり、12人の人間が事務所に入った。それ以前にいた人間と合わせて31人であることをレポ隊が既に確認していた。

7時10分攻撃命令が下された。2台のマイクロバスから30人が降り立った。全員ヘルメットにタオルでマスクをして竹ざおと鉄パイプで武装していた。組事務所向いの旅館からも鉄パイプの12人の集団がおどり出て、一斉に事務所を襲撃した。竹ザオの槍ブスマで1ケ所の入り口と3ケ所の窓から部隊は突入した。事務所の中には28人の正装したヤクザと3人の女が酒盛りをしていた。ビールビンを投げたり、木刀で反撃を試みたが、3人の女は事務所の外に放り出された。組員達はメッタ打ちにされ洋服をすべてはぎ取られた。金庫は施錠されていないで現金と新しい祝儀袋が沢山入っていた。
事務所は内部も外部も徹底的に破壊された。5台の黒塗りの車はガラスをすべて打ち砕かれてタイヤも切り裂かれた。群衆が集まって来た。最初はヤクザ同士の出入りと考えていた人達も多かった。
「全学連頑張れ!」「徹底的にやれ!」という激励の声が上がった。興奮した群衆は破壊活動に加わり、外車をひっくり返して火を放った。消火器を持って駆け付けた近所の商店主は群衆からこずかれた。事務所前の路上が黒煙に包まれる中を42人の部隊は、2台のマイクロバスに分乗して逃走した。消防車とパトカーのサイレンが遠くから響いていた。戦利品は現金300万円と洋酒2本だった。

ミナト組の事務所は1ケ月程廃墟になっていた。3ケ月後に麻雀屋が新装開店したが、店主は組員ではなかった。金城飯店への営業妨害も中止された。

実行部隊42人から精鋭20人が選抜され、反暴力団直接行動委員会(HBC-KI)が正式に結成された。レイはこの組織を「蛇使い」と呼び、それが呼称となった。そして2週間後に名古屋の組事務所を襲撃し、更に2日後には神戸で行動を起こした。いずれも金秋男の兄の金春男の依頼によるもので、彼の友人の華僑が地元の暴力団から営業妨害を受けていたのだった。

反暴力団直接行動委員会の攻撃は、工事現場からマイクロバス、角材、ヘルメットを盗み出して、組事務所に乗り付けて居合わせた組員を乱打し、内部を徹底的に破壊し、できる限りの戦利品を持ち帰るという荒っぽいものであった。組事務所では多勢に無勢、襲撃した団体も分からなければ、襲撃された理由も理解できなかった。警察沙汰になったり、新聞記事になることもなかった。

反暴力団直接行動委員会は内ゲバの実行部隊としても活躍した。革マル派や民青系、社青同解放はなどの集会に乱入して、集会を蹴散らした。ブント内の対立するセクトのアジトを襲撃した。敗色濃厚なスト決行中の大学の理事長室などを深夜や早朝襲撃してガードマンを蹴散らして破壊活動を行った。






 チャイナ・クラブ


金秋男には、金春男という兄がいた。彼は東京と神戸で「ゴールド商会」という貴金属店を営業していた。暴力団の営業妨害による倒産の危機から救われた金兄弟と彼等の友人達はお礼にレイをホンコン旅行に数回招待した。ホンコンでの彼の氏名は金国男という中国名になっていた。金兄弟とレイは義兄弟の誓いをかわした。

レイは一流ホテルに滞在して、ホンコンに拠点を置いて東南アジアや日本で事業を展開している華僑や華人に引き合わされた。イギリスやオーストリアの貴族や実業家とも友人になった。金兄弟はレイを日本生まれの在日中国人の金国男として皆に紹介した。金国男は中国語は全くだめで、日本語と英語しか喋れなかった。彼は医師でありながら青年実業家で、日本では手広く事業を成功させているのだという話を誰もが信じた。中国人達は特に彼を大切な客として扱い、自宅のパーティーに招待してくれ、帰りには沢山のおみやげを持たせてくれた。

レイはホンコン旅行のたびに、オリンパス社製の最新の胃カメラを持参して、現地の病院に寄付した。彼は現地の医師団に胃カメラの操作方法を教えたり、ホンコンの有力な華僑華人に胃カメラ検査を実施した。当時ホンコンの医療水準は日本と比べて大きく遅れていた。レイのホテルには毎日、中国人やヨーロッパの実業家達が診察を受けにやって来た。乞われて摩天楼最上階の社長室に往診に行く機会もあった。レイは決して診察料を受けとらなかった。義理堅い中国人達は、お礼にレイに宝石やオメガやローレックスの時計や、金製品などをプレゼントした。レイはお土産のプレゼントのほとんどを金兄弟に換金してもらってホンコンに預金をした。オメガやローレックスは東京のアメヤ横丁の金春男の経営するゴールド商会の店頭に並べられた。1年程してレイはチャイナクラブの会員に迎えられた。

レイは自分が左翼的な運動をしていることを決して口にしなかった。内科と病理学の医師で、内視鏡を中心に医療器具の改良や開発する会社と、医師の人事派遣会社もやっていて、東京・大阪などでスナックを20軒開業しているとの触れ込みだった。これらにウソはなかった。彼は事実胃カメラを器用に操作し、巧みなテクニックはホンコンの医師達の驚きであった。「我々中国人にもそんなマネはできない。ドクターキムは大変な才能の持ち主だ。」という評判がチャイナクラブを支配した。

ある保険会社の社長は近代的設備を持った日本の一流の病院と同じレベルの病院を建設中だった。彼はドクターキムに指導医の派遣を依頼した。1か月後、日本から優秀な青年医師が2名派遣された。2週間交替で次々と2人ずつ医師が派遣され、1年間ホンコンの医師を指導して、50人以上の医師がそれぞれの得意分野を教えた。「新しい医学を学ぶためにアメリカに1年間留学することが夢で貯金をしていたが、アメリカ留学をしなくても新しい医学を習べた」と多くのホンコンの医師達はドクターキムに感謝をした。

ホンコンを拠点にドクターキムは華僑華人の招きで東南アジア各地を旅行し、彼等の親戚や友人達の往診をした。ヨーロッパにも何度も足を運んで、貴族の仲間入りをした。有名人の集まる晩餐会に出席をして、リゾート地の人気者であった。

水泳はドクターキムの最も得意なスポーツで、プールサイドやビーチでは極めて目立つ存在だった。柔道、ボクシングも得意で、彼は友人達の前で模範演技や試合をしてみせた。ギターとピアノを弾きながら歌った。ダンスも得意だった。ヨーロッパの古城や友人の似顔絵を描いてプレゼントをした。

ホンコンでは政治の話はあまりしなかった。チャイナクラブのメンバーにも政商もいるし、死の商人もいた。ベトナム戦争も彼等にとってはビジネスチャンスだった。だから相手の商売を深く訊くことはしなかった。世界中の国が騒然としていた時代だった。「人間誰だって古傷は持っている。私達は悪いことも、汚いこともしてきた。隣の国で戦争が起こっても、革命が起こっても、私達には関係のないことだよ。法律も国境もは私達流れ者にとっては必要はない。大切なのは義侠心さ」成り上がり者でも、火事場泥棒でも、友情を裏切らない限り、チャイナクラブは友人には温かかった。「中国人はいつも奪われ続けてきた。お金は知識として頭の中に詰め込むか、食事として胃の中に詰め込めば、もう奪われないのだよ。死んだら何も残らない」金兄弟はいつもそう言っていた。「私達は国や法のためには死ねないが、友のためなら死ぬこともできる」ドクターキムが日本政府に反抗しているとの噂は、当時の日本政府が露骨に反中国の姿勢を取っていたので、世界放浪者集団の華僑華人にとっても好ましいことに思えた。

デモ



 石田姉妹と大日本会


1971年、作曲家の中西礼が「芸能人相姦図」という連載物を週刊誌に発表して、大物タレント達のプライバシーを暴露していた。彼の恋人であるはずの歌手の石田あゆみも標的にされた。彼女は9月11日、急性肝炎のため慈恵医大第三病院に入院し、レイが主治医になった。週刊誌の記者が毎日のように取材にやって来た。

石田あゆみの特別室には京都から駆け付けた母が、一日中付き添っていて、記者や見舞い客を病室内に入れようとしなかった。中西礼も見舞いにやって来たが、母が廊下で花束を受け取っただけだった。彼女は娘が病気で倒れたのは、彼の暴露記事が原因で心労が重なったためと考えていた。彼女は今回の入院を機会に、娘を芸能界から足を洗わせようとして、主治医のレイからもそれを勧めてくれるように依頼した。
石田あゆみの腹壁に1センチの穴をあけて、内視鏡で肝臓を観察した結果、急性肝炎ではなく、亜急性肝炎という慢性化の恐れがある肝炎であることが判明した。
「あゆみさん、あなたは仕事をやめた方が良いと思いますよ」「私だって働かないといけないの。それとも桝田先生が私と結婚して、私を養ってくれる?」

石田あゆみには、石田ゆりという妹がいて、同じ芸能事務所に所属していた。あゆみの2カ月間の入院中、妹のゆりは突然、姉の恋人と思われていた中西礼との婚約を発表した。2人の結婚には、右翼の大物児玉誉夫が媒酌人ではなく、「後見人」という名目で介在していた。母はゆりに婚約解消を説得したが、娘は同意しなかった。母は血圧が上昇し、苛立っていたので、レイは血圧降下剤と安定剤を処方した。

数日後、児玉誉夫があゆみに付き添い中の母に挨拶に来るとの連絡が入った。彼女は気分がすぐれないので、レイに同席して欲しいと願い出た。あゆみの病室と同じフロアにあるカンファランスルームが会見場所だった。児玉のボディーガード達は廊下で待っていた。児玉は落ち着いた口調で、型通りの挨拶をしたが、母は興奮していた。「ゆりと中西さんの結婚に私は反対ですし、身内の者も全員反対しています。あゆみも桝田先生も反対しています。桝田先生はあゆみの主治医ですが、2人は結婚を前提としてお付き合いをしています。桝田先生は慈恵医大の全共闘のリーダーです」「一体どうなっているの?」とレイは驚いたが、最後まで一言も口をきかなかった。「それは結構なことです。私は若者の純真な決意を何より重んじる人間です。ゆりさんも中西君も既に結婚を決意しているのだから、ご家族に賛成してもらわなくてはなりませんな」児玉は帰って行った。

翌日、児玉の秘書の太刀川實がレイに面談を申し入れて来た。2人は前日と同じカンファランスルームで会談した。「先生は、加藤登紀子の愛人の藤本敏夫君とは友達ですか?」「名前は聞いたことがあると思います」レイはとぼけた。藤本は共産主義社同盟の中央委員の一人で、もと全学連副委員長だった。「スンガリーというロシア料理店はご存じですか?」「加藤登紀子さんのお父さんの店でしょう。ところで用件は何ですか?」「医者は黙って患者を見ていれば良いのではあって、余計なことに口や手を出して欲しくないと忠告に来たんです」「余計なこととは何ですか?」「ミナト組の事務所襲撃はあんたの指し金じゃないかと我々はにらんでいる。あんたは新聞記者にまぎれて砂防会館に入り込んで、エレベーターの中で釼木文部大臣のハゲ頭を殴った記憶はないかい。ドクターキム、偽造旅券で香港に行ったことはないかい?」「さあ、どうでしたかね」「ドクターキム、とぼけるんじゃない。我々は日本を赤色革命から守るため、大日本会という結社を作っている。児玉先生は大日本会の理事に就任されて居る。大日本会には政界、財界、警察、自衛隊、私立大学の学長などあらゆる分野のトップクラスのメンバーが参加している。君達の暴力革命ごっこや隠密行動なんて、大日本会ではとっくにお見通しなんだ」レイは少しも動じなかった。「それで御用件は何ですか?」「貴様は話にならん奴だ」太刀川はドアを開け放したまま帰って行った。

ミナト組以外の組事務所襲撃について敵は気付いていないようだ。パスポートは作り替える必要がありそうだ、とレイは思った。

あゆみの母のスタンドプレーのため、レイは一時週刊誌に「石田あゆみの新しい恋人」として書かれたりしたが、間もなく、彼女は記者たちに「桝田先生は単なる主治医であって、娘の恋人ではありません」と発表した。どのような心境の変化があったのかは分からないが、彼女はあゆみの芸能界復帰にも、ゆりと中西の結婚にも反対しなくなった。石田あゆみの入院騒動は一見落着となった。2ケ月の入院であゆみの肝機能は正常化し退院した。

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